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沿革 | 逗子開成中学校・高等学校

沿革

沿革

120年のあゆみ

明治の早創期~太平洋戦争

田邊新之助

本校の前身は、1903 (明治36)年、私立東京開成中学校の分校として、三浦郡田越村池子(現逗子市池子)に開校された各種学校私立第二開成学校です。初代校長は東京開成中学校の校長を務めていた田邊新之助でした。その後、中学校としての認可を得、東京開成中学校から独立し(1909)、私立逗子開成中学校と改称しました。有名な「七里ヶ浜ボート遭難事故」が起こったのはその翌年の1910(明治43)年のことでした。
事故後の財政的危機の中で財政監督として神田らい(金偏+雷)蔵を迎えますが、1919(大正8)年に退役海軍軍人である岡田三善を第6代校長に迎えるまでの約10年間は紛擾事件が相次ぎ、学園は安定しませんでした。その後、戦前は第7代奥宮衛、第8代鹿江三郎と海軍出身者が校長を務め、一つの全盛期を迎えました。財団法人化されたのは1931(昭和6)年末のことでした。

戦後の学制改革~運動部の活躍期

太平洋戦争後、学制改革に伴い、逗子開成中学校・逗子開成高等学校が設置され、1953 (昭和28)年には創立50周年を迎えました。教職員86名、生徒数1910名を数える大規模な学校に発展していました。
しかし、時代の流れの中で、1960年(昭和35)年には学園の教育改善と近代化をめぐる紛争が起こり、神奈川県知事の斡旋を仰ぐ事態にまでなりました。また、高度経済成長期の公立教育の充実の中、本校中学校への志願者は年々減少し、1973(昭和48)年には中学校生徒募集中止を余儀なくされました。しかし、この時期、本校は運動部の活動が非常に盛んで、全国レベルの選手を多数生み出したのです。
昭和40年代は学園のもう一つの全盛期だったと言えます。

八方尾根遭難事故~徳間理事長の学校改革期

学園に大きな打撃を与えたのが、1980 (昭和55)年の暮れに起きた北アルプス八方尾根での遭難事故です。山岳部生徒5名と顧問1名の命が失われました。補償をめぐって遺族と学園との間で訴訟が起こり、学園は大混乱に陥りました。長きにわたった混乱を収拾したのが、1984 (昭和59)年2月に理事長に就任した徳間康快でした。徳間新体制のもと学園改革は急ピッチで徹底的に進められました。募集を停止していた中学校再開(1986)を大きなステップとして、諸設備の充実が図られました。校庭散水設備・暖房設備・AVC教室・85周年記念ホール(現徳間記念ホール)・海洋教育センター、等々です。設備の充実と並行して教育システムの整備も行なわれました。二期制導入・海外研修実施・週5日制実施と土曜講座開設、等々です。2000(平成12)年9月に徳間康快が理事長在任のまま逝去するまでの十数年間は弛まざる改革の時代でした。

創立120周年、そして未来へ

120周年記念式典

2023(令和5)年創立120周年を祝う記念式典が行われました。120周年記念プロジェクトチームに100名を越える有志生徒が参加。1年をかけて準備をし、生徒主体の素晴らしい式典となりました。これからも生徒が主役であり、生徒が活躍する学校として、更なる発展を期して歩んでいきます。